人道往くのは、杉原千畝『六千人の命のビザ』 

六千人の命のビザ

  • 著者:杉原 幸子
  • 出版社:大正出版
  • 発売日:1994/3

 

杉原千畝。第二次世界大戦中、日本外交官として赴任していたリトアニアのカウナスで、ナチスによって迫害されていた多くのユダヤ人にビザを発給し、彼らの亡命を手助けした。

杉原千畝は一つの決断により、六千人の命を救った。当時は、反逆者扱いされていたが、彼は英雄だと歴史は判断した。

その決断にいたった背景、苦悩はなんだったのか。
本書を手掛けた、杉原千畝の妻、幸子さんが語っている。ずっと影から支えてきた彼女の体験談と共に、探っていこう。

覚悟のビザ発給

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1939年、杉原千畝は、リトアニアへの転勤命令を受け、首都カウナスの日本領事館に赴任した。

翌年の1940年7月18日の早朝。
千畝は、いったん事務室に下り、幸子の部屋をノックした。

「ちょっと覗いてごらん」

幸子はカーテンを少し開けて、外を覗いて驚いた。領事館の周りをユダヤ人の群れが埋め尽くしているのだ。時折、窓を覗くと、顔の汚れた幼い子供が父親の手も握っているのが目に入り、胸の奥に鋭い痛みを覚え、幸子は思わず目を閉じてしまった。

この頃、「ユダヤ人狩り」が始まっていた。ユダヤ人商店、協会などが焼かれ、ナチスの手により多くのユダヤ人が収容所に連れていかれる。その後、残虐な方法で殺される。

このときのユダヤ人の様子を千畝はこう語っている。

いずれもポーランド西都市からのユダヤ系であって、ナチス・ドイツ軍による逮捕、虐殺の難を逃れ、唯一の逃れ道としてのヴィルノを目指し、晴雨を問わず幾日もかかって、ある者は鉄道線路沿いに痛む足をひきずりつつ、ある者は運良く行きずりの荷馬車に乗せてもらうなどして、辛うじてヴィルノにたどり着いたわけである。とにかく、ソ連、日本を経由してそれ以降の第三国に移住するための日本通過ビザを発給してもらいたい、ということだった(杉原千畝の手記より)

本省宛にビザ発給の許可を求める電報を打ったが、本国は拒否した。ユダヤ人を逃がすような事は、ドイツへの敵対行動にあたる。故に、本省から許可が降りるわけがないのだ。

ナチスの非道を、現地ユダヤ人から確認した千畝は、ユダヤ人をその生き地獄から救うべく、決意を固める。しかし、ビザの発給が知られれば、襲撃される恐れがあった。千畝は死ぬ覚悟はしていたが、家族にまでそれを強要するのか千畝は苦悩していた。

千畝「幸子、私は外務省に背いて、領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」
幸子「あとで、私たちはどうなるかわかりませんけれど、そうしてあげてください」

幸子は微笑みながら頷いた。これだけで杉原夫妻の信頼関係がわかる。

一人ずつ面接を行い、手書きでビザを書くという、手間のかかる作業が始まった。知らず知らずに手に力がこもり、万年筆が折れてしまい、ペンにインクをつけて書くという日が続く。一日が終わると、ぐったり疲れてベッドに倒れこむ。痛くて動かなくなった腕を、幸子がマッサージしているほんの数分のうちに寝てしまうような状態であった。
ユダヤ人亡命のため、朝から晩まで、休むことなくビザを発給し続ける毎日が20日ほど続いた。

本国から退去命令が出されており、カウナスを出なければならなかった。千畝はそれでも期日、体力の限界を超えて書き続けた。
領事館から車で出たときに見た、数人のユダヤ人が呆然と佇んで見送る姿を、忘れることができないと、幸子は回想録に残している。

カウナス駅で列車を待っている間にも、ビザを求めて何人かのユダヤ人が来ていた。千畝は、汽車が走り出すまで、窓から身を乗り出して許可証を書き続けた。やがて、汽車が走り出した。もう書くことができなくなった。

「許して下さい。私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」

夫は苦しそうに言うと、ホームに立つユダヤ人に深々と頭を下げました。呆然と立ち尽くす人々の顔が、目に焼き付いています。

「バンザイ、ニッポン」

誰かが叫びました。

「スギハァラ。私たちは,あなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」

列車と並んで泣きながら走ってきた人が、私たちの姿が見えなくなるまで何度も叫びつづけていました。

第二の人生

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カウナス退去後、外務省から様々な大使館への赴任を任命される。その最中、日本が敗戦したと聞き、帰国する。杉原夫妻に待っていたのは、千畝の外務省解雇処分であった。

千畝自身も覚悟していたことだが、やはり悔しそうだったと幸子は語る。だが、その事で夫が愚痴を言う事は一切なかったそうだ。

外交官を辞めさせられ、貿易会社のモスクワ事務長となったとき、驚きの知らせが届いた。カウナスでビザを発給した時のひとりで、ニシュリという人が大使館の参事者として赴任してきた。あれから二十八年も経っている。まさか、という驚きとともに、喜びが広がっていった。

ニシュリ氏はイスラエル大使館で夫と会うと、一枚の紙を見せて

「これを覚えていますか?」

その手には、かつて夫が書いたビザが握られていた。もうボロボロになっていたが、大切に持っていたそうだ。
ニシュリ氏が幸子の顔を見たとたん、手をとり固く握って涙を流して喜んでいた。

それでも、夫は外務省を辞めさせられて以後も苦労の日々の中で、「あの時にビザを出したために」と思い返すことが度々あったようだ。だからあの時のユダヤ人が目の前に現れ、自分の行為が無駄ではなかったことを知ったときに、初めてこれまでの苦労が報われた思いがした。

黄金の丘

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昭和六十年は、杉原夫妻にとって記念すべき年になった。イスラエル大使館から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」が千畝に授与された。日本人として、初めて杉原千畝が選ばれた。その時に、マスコミに言ったことがある。

私のしたことは外交官としては間違ったことだったかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった。そして、それは正しい行動だった…
私の行為は歴史が審判してくれるだろう

この黄金の丘での発言を聞いた、幸子さん自身も報われたそうだ。

その後、杉原夫妻は数々賞を授与され、カウナスで発給した時のユダヤ人たちと再会していく。

六千人の命を救った杉原千畝と幸子さんは、決して幸せではなかったと言う。ビザを発行して散々苦労してきた。

何故そうまでしても助けたのか。

彼に救う救わないの二択はない。千畝は、人に手を差し伸べるのは当然であったから。幸子さん曰く、最期まで人道を貫き、働いているのが好きな人だったそうだ。

杉原千畝が救った六千人の命は、新しい命を繋ぎ、現在では何百万人と広がっている。自らの信念において人道と勇気を見失わなかった外交官の実話は、今もなお受け継がれている。

六千人の命のビザ

  • 著者:杉原 幸子
  • 出版社:大正出版
  • 発売日:1994/3

 

 

 

モデルプロフィール

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  • 名前:Eri
  • 生年月日:1992/08/20
  • 出身地:静岡県
  • 職業:本to美女専属モデル
  • 趣味/一言:梅酒をつくっています
  • 最近の悩み:早起きが苦手です

(カメラマン・Rimi Sakamoto/個人サイト・http://www.rimisakamoto.net/

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WRITERこの記事を書いた人

タバオ

大学受験に失敗し、1年浪人するも不合格。コンビニ、土方、ヒーローショウ、環境調査隊、家電量販店のアルバイトを経験するが、やがてはニートにまで落ちる。だが、失うものがないからこそ、開き直れる! 高卒だっていいじゃない。ニートだったからって何なのさ! よく読むのは、歴史小説と漫画。好きな歴史小説『播磨灘物語』、漫画『NHKにようこそ!』。