『捕食者なき世界』仮初めの平穏と忍び寄る影

動物園の虎

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「うさぎさんかわいいね」
動物園のふれあいコーナーで母に声をかけられた僕は、腕の中の真っ白な彼女の赤い目を覗き込みながら小さく頷いた。道徳の授業で命の大切さなるものを教えられた後だったので、この温もりがそうなのかな、なんて考えていた。

そんな穏やかでこじんまりとした動物の命へのイメージは、岩山の頂点に悠然と佇む虎を前にして崩れ去った。僕をまっすぐに見つめる虎は美しかった。今まで目にしたことがない美しさだった。

彼は街中で目にする鳩や烏、あるいは犬や猫とはまったく違う空気をまとっていた。人の存在に気づいた時、僕の周りにいる生物はたいてい警戒の色を示していた。何かあればすぐに逃げられるように準備していた。しかし彼の目からは怯えは読み取れなかった。揺るがぬ自信、強者としての矜持、そうした風格を纏った彼の美しさから目が離せなかった。

そして直感する。この檻がなくなったら、今度は僕が逃げる番なのだ、と。

捕食者なき世界

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この世界の美しさは厳しさに裏打ちされている。
日々の生活では絶対に見えてこないものが、自分の命を世界にさらけ出すことで見えてくる。命に対する緊張感が世界への感度を強烈に高める。

遠くの草叢が揺れる。風が木々を揺らし乾いた音を奏でる。立ち込める土の匂いが鼻をつく。ぬかるみに足を取られそうになる。そして自分の命を奪いうるもの-捕食者であるハイイログマ-に遭遇する。

著者が大型肉食獣であるハイイログマと出会うところから本書は始まる。
自身の体験を執筆の動機としながらも、あくまでも生態系全体に対する影響を考察するために、特定種に肩入れしない中立の視点を以て現在世界で起こっている問題を探っていく。よくあるテレビ番組の、ライオンから逃げるシマウマに同情を寄せ、噛みつかれる瞬間にかわいそうという感情を抱くような視点からは見えてこない景色がだんだんと浮き彫りになる。

ピューマのいなくなったザイオン渓谷で起こった出来事を例としてあげよう。ピューマは世界で4番目に大きい大型のネコ科動物であり、高さ5,5m、幅12mを跳ぶことのできる強靭な肉体を有している。ザイオンが国立公園に指定されたことをきっかけに1934年頃には年間約7万人の群衆がザイオンに訪れるようになり、ピューマはザイオンから次第に姿を消していった。

捕食者のいなくなったザイオン渓谷ではミュールジカが急激に増加した。増加したミュールジカの餌食となった川沿いの林は枯れ果て、あたりの草木を食い尽くしてしまったミュールジカたちは飢えに苦しんでいた。

一度失われてしまった生態系の豊かさを認識することは通常困難であるが、ザイオン渓谷からわずか15kmほどのところにあるノース・クリーク渓谷と比較することで、捕食者のいなくなったザイオン渓谷に何が起きたのか明らかとなった。ノース・クリークにはザイオン渓谷の47倍のハコヤナギが生え、3倍のトカゲ、5倍のチョウ、100倍以上のヒキガエル、200倍以上のカエルがいた。

ベニバナサワギキョウとアスターに至ってはザイオンには花の付いている茎が一本もなかったので、その差は無限大と言っても過言ではない。人間がピューマを追い出しとたことでミュールジカが激増し、ハコヤナギが枯れ、川岸が崩れ落ち、野草が消え、その花の蜜を吸い葉に繭をかけていたチョウやガがいなくなり、それらを追って潅木の茂みを走り回っていたトカゲが姿を消したのである。捕食者の消えた森はそのバランスを失い、数え切れないほど多くの動植物が姿を消してしまったのである。

38億年前、地球に生命が誕生し、悠久の時を経て現在の生態系は築きあげられた。最下層の微小な生物から最上層の肉食獣までが属する生態系は、絶妙なバランスの相互作用が各種間に働くことにより、持続可能性及び多様性を保持してきた。しかし、人類が生態系の弾性・復元力を上回る速度で他の生物種及びその生息環境に干渉した結果、予測不可能な事態が発生し、解決策は未だ十分に機能していない。

死の恐怖に駆られたヒトは安心を求め、自らの行動の与えうる影響など顧みずに、捕食動物たちを絶滅の淵に追いやってきた。そしてとうとう自分たちの首を絞めるような事態を引き起こしてしまうところまで来てしまった。

我々はこれからどのように生きていくべきなのか。自らの内部に巣食う恐怖に正面から向かい合うことで、人類自身も含めた自然に対する畏敬の念を思い出すことはその第一歩となるだろう。さらにその先に歩みを進めるためには、豊かさとは何か、我々が守るべきものはいったい何なのか、そしてこの地球のすべての命とどう向き合っていくべきなのか、常に問い続ける必要があるのだ。

生命愛(バイオフィリア)

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日の光が照らす朝露に濡れた若葉を美しいと感じ、抱きしめた小さな命の温もりを愛しいと感じた経験は誰しもあることだろう。こうした生命に対する慈愛の感情を生命愛(バイオフィリア)とE・Oウィルソンは呼んだ。自らの手で追い詰めてしまったものたちを救うのは、きっと僕たちひとりひとりの心中にある生命愛(バイオフィリア)を置いて他にないだろう。そしてその愛をかつて自分達にとって脅威であった捕食動物たちに向けることができるようになった時、人類は新たなステージへと足を踏み出すのだ。

今日のポイント

  • 人類は未だ生態系の多様性及び持続可能性をコントロールする術を手にしていないこと
  • 自らの内に潜む恐怖や傲慢という目をそらしたくなる感情を見つめ直すこと
  • 豊かさとは何か常に問い続けること

捕食者なき世界

  • 著者:ウィリアム ソウルゼンバーグ
  • 出版日:2010/9
  • 出版社:文藝春秋

モデルプロフィール

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  • 名前:五十嵐美樹
  • 生年月日:1992/03/19
  • 出身地:東京都
  • 職業: 科学のお姉さん
  •  受賞歴:ミス理系コンテスト2013グランプリ
  • 一言:科学イベントでお待ちしております
  • Twitter:@igamiki0319

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