『夜と霧』に書かれたから意味があった「未来」と「人生」の話

原著のタイトルは「心理学者、強制収容所を体験する」。

すなわち、ナチスドイツによる強制収容を体験した心理学者の体験と、その心理学的分析を収録した一冊だ。
筆舌に尽くしがたい状況から生還した彼が、生きること、そして未来について語ることとは。

 『夜と霧』は彼にしか書き得なかった

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原著の初版は、第二次世界大戦の傷も癒えない1947年(日本語版は1956年)に出版された。

さらに原著者は1977年に改訂版を出版したが、本書はその改訂版を新訳したものになる。
まず、これほどまでに長く、本書が読み継がれているのはなぜか考えてみたい。

一つには、ナチスドイツによる言葉を絶する愚行が、冷静すぎるほど淡々と記録されていることだろう。

もう一つは、その主観的体験から距離を置き、そこに見られる心理学的な知見を、心理学者として一般化しているからだといえる。

この意味は非常に大きい。
事件の「まっただなか」にいる者は主観性の高すぎる記述になる。
逆に、距離を置きすぎていた「部外者」では、妥当なことを言える立場にない。

つまり、まっただなかにいながら、距離をもって収容所経験を語ることができる数少ない人間だった、と著者は自らの立場を明らかにしている。
だからこそ、あえて匿名ではなく、実名で語ることを試みた。
その価値が最も大きいのではないだろうか。

 収容所を振り返って考える「自由とは何か?」

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「一人ひとりはまさにただの数字」であり、「『小さな』犠牲や『小さな』死」がおびただしく起こる。
そんな凄惨で非人道的な収容所での出来事を、著者は3段階に分けている。

それによれば、「収容される段階」、「収容所生活そのものの段階」、「収容所からの出所ないし解放の段階」の三つに分かれるという。
特に「収容所生活そのものの段階」の記述には紙幅が多く割かれている。
収容所における特権階級の横暴、囚人同士の監視など、肉体的、社会的、心理的な拘束が行われていたのが、収容所という場所だ。

そうして収容所生活を整理する中で、筆者はこんな疑問を持った。
「では、人間の自由はどこにあるのだ。」

望みもしない環境に強制連行され、救いのないような環境の中では、人の自由は存在しないか、そもそも自由自体が、存在していないように思えてしまう。
しかし、それに対する筆者の答えは
「人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せる」だ。

つまり、どんな人間にも精神的自由が存在している、と彼は言う。

行動的な生き方、愛される生き方など、生き方そのものに意味があるのではない。
精神的自由が生きる意味を意義深いものにさせる、としている。

そう考えると「苦しむことにも意味があるはずだ」と著者は続ける。
悲しみも苦しみもすべてひっくるめて、生きることなのだと。

辛い時は誰だって、目の前のことを見たくはない。
目まぐるしく変わる今についていくことができず「昔はよかった」「俺だってあの頃は……」なんて、過去に想いを馳せる人もいる。
事実、収容所でもそうして現実から目を背け、輝かしい過去にばかり記憶を戻していた者はいたという。

そんな者を彼はこう批判する。
「現実をまるごと無価値なものに貶めることは、被収容者の暫定的なありようにはしっくりくるとはいえ、ついには節操を失い、堕落することにつながった。」

著者がいた棟の班長は、ある日こんな夢を見たといってきた。
「なんでも願いがあれば願いなさい、知りたいことがあるなら、何でも答えるって。(中略)わたしにとって戦いはいつ終わるか知りたい、と言ったんです。」

しかし、戦況がどうやら夢で聞いたお告げの日までに良くなりそうにないことが、日に日に明らかになっていった。
そのような状況下で、班長が突然高熱で倒れたのはお告げの日の2日前だった。
そして、お告げの日の翌日に彼はこの世を去ってしまった。

深い闇の中にいる人を助けるために、未来がある。

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現実に絶望する者にとって、藁にもすがりたくなるのはもっともなことだ。
先の班長も何かを信じたかったのだろう。
しかし、夢見た未来が現実のものとならなかった結果、班長は命を落とすことになった。

そんな人を、周りの人間はどう支えることができるだろうか。
著者は言葉をかける者としてのスタンスも書き記している。
「未来の目的にふたたび目を向けさせることに意を用い、精神的に励ますことが有効な手立てとなる」
そして、
「彼らが生きる『なぜ』を、生きる目的を、事あるごとに意識させなければならない」

収容所での生活は、いつ終わるかがわからない。
そうすると、自らを「暫定的存在」(すなわち終わりが見えない)だと思うようになる。
そうなってしまった人間には、未来をみすえることができなくなってしまう、と筆者は指摘する。
これを踏まえれば、目の前の課題で一杯になっている人に、その先にある真の目的へともう一度目を向けさせれば、再び輝きを取り戻させることができるだろう。

ただ、中には、そういった次元を超えて「なぜ自分は生きているのか」と悩む人がいるかもしれない。

何のために仕事をするのか。これをして何の役に立つのか、というところから始まって、「そもそも自分はなぜ生きているんだろう」と迷ってしまう人は、決して少なくない。
そんな人には、この言葉を送ってほしい。
「生きるとはつまり、生きることの問に正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることに他ならない」
生きることの意味を、私たちが問うのではない。
生きることが、その意味を私たちに問いかけている、というのが著者の考えだった。

つまり、その時々の試練、困難に立ち向かうことや、それぞれの出来事に対して決断を下すことそのものが、生きることなのだ。
著者はそれらの決断が「他に類を見ない人それぞれの運命をもたらす」としている。
決断が生きることであり、運命をもたらすのなら、未来はすべての決断の先にあるものだと言えよう。

その証拠に「生きることが私たちに向けてくる要請も、とことん具体的である」という言葉を残している。

誰のものでもない、希望した未来を描くためには、自分にしかもたらされない決断の数々が待っている、と思えば納得もできないか。

一般論は参考程度にしかならず、自分だけに降りかかる決断の時を、最大限活用するしかないのだろう。
本書に描かれた事実は、悲しく、取り返しがつかない。
それは全人類が重く受け止めなくてはいけない。

ただ、悲しい事実からも何かを得て未来に進むことが、後世に残された私たちにできることだろう。

未来を見ていれば、どんなに辛くても人は生きられる。
そして、生きることは、決めることだ。

それは収容所にはいない私たちでも同じことだ。
未来をつかむためには、自らの意志で決断していくほかない。

今日のポイント

  • どんな絶望的な状況でも、自らの精神的ありようを決める自由は存在している。
  • 絶望の淵にいる人には、未来の目的が救いの手となる。
  • 生きることは、常に具体的な状況における決断の連続だ。

夜と霧 新版

  • 著者:ヴィクトール・E・フランクル
  • 出版日:2002/11/6
  • 出版社:みすず書房

モデルプロフィール

nakazawa_profile
  • 名前:中沢 結
  • 生年月日:1995/07/11
  • 出身地:長野県
  • 職業:日本大学
  • 受賞歴:OCC2015 TGA賞/FITS賞
  • 趣味・一言:野球観戦
  • Twitter:@occ_yui

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WRITERこの記事を書いた人

庭野蹴

同級生に同級生と見られない老け顔(両親譲り)眼鏡(父親譲り)の男性。お母さん方の井戸端会議によく顔を出しつつ、平和な青春時代を過ごす。 血のにじむような努力(とカロリー過多な食事)の末、早稲田大学に入学。授業に来なくなる友人を尻目にいそいそ学問に励む。結果、ちゃっかり論文で入賞したことも。また、(若さゆえ)関係各所に噛みつきながらフリーペーパーの制作もしていた。現在は社会人。